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岐阜で活躍する女性の紹介
〜岐阜で活躍する女性からあなたへのメッセージ〜

障がいのある人も前向いて
積極的に人と関われば
より良い環境が生まれ
充実した生活が過ごせる


高山病弱児を守る会『あかりんぐ』会長
勝田なお子(かつた なおこ)さん(飛騨市)

【2020年7月10日更新】

重度心身障がい児・者と、その家族が豊かな生活を送るために立ち上がった「高山病弱児を守る会『あかりんぐ』」。自ら学び、助け合い、暮らしやすい社会になることを目的に2カ月に1回座談会を開催。行政や諸団体と協力して暮らしやすい地域になるよう働きかけています。そんな会の会長を務める勝田なお子さんは、「ツナガリ拡がる」をモットーに活動しています。

これまでとは違う
子育てで感じた不安

 高山市で生まれ、4人兄弟の長女として育ちました。家事全般や下の兄弟の育児にも積極的に協力。いまも趣味にしているミシンは、小学生の時に買い与えてもらい、縫物を任されていた影響です。
 高校卒業後は子どもが好きだったこともあり、保育士をめざして大垣女子短期大学の幼児教育学科に進学。保育士と幼稚園教諭の資格を取得すると、しばらくは大垣で働き、23歳で地元に帰りました。病院の看護助手を経て、託児所の仕事をしていた25歳の時に結婚し、飛騨市に移住。結婚を機に職を辞し、翌年には長男、その翌年に次男、その2年後に長女を出産しました。それから時をおいて、37歳の時に次女を出産。夫と4人の子どもと暮らしています。
 転機となったのは次女を出産した時。振り返ると、妊娠中から立ちくらみや胎盤出血といったマイナートラブルがあり、入院していました。次女は産まれた時も泣かず、一週間ほど目も開かない。首が座るのも遅く、これまで育ててきた子どもとは違うと感じていました。
 同い年の周りの子どもと比べても成長の具合が違う。医師に何度も聞きましたが、「子どもによって違うから」といわれるばかり。どうしたらいいんだろう。私はこの子をちゃんと育てられるのだろうか。いつも、そうした不安を抱えていました。

人との会話でほっとする
そんな場を飛騨につくりたい

 次女の成長とともに、少しずつ理由がわかってきました。岐阜大学に検査入院し、判明したのが「てんかん」。誰に話せばいいのかわからず、高山赤十字病院に通院する時も人と目を合わせないようにしていました。そんな時、たまたま次男の同級生のお母さんに会ったんです。その人も、障がいのある子どもがいて、私の気持ちに寄り添ってくれました。話すというより、とにかく泣かせてもらったんです。すると、いままで自分一人で抱えていたものが軽くなったように感じました。ホッとできる場が欲しいと思ったのはその時です。
 次女が4歳になった時、痙攣などの発作がひどくなってきて、静岡てんかん・神経医療センターへ転院しました。その病院は、障がいのある子どもに対し、社会的自立を促す療育を大切にする方針。そのため、食事をできる限り食堂で食べ、街へ散歩に出かけたり、ときにはバスに乗って中心部まで行ったりと、経験することを大切にする方針でした。
 その場で、たくさんの仲間に出会えました。周囲には次女よりもっと重度の障がいがある子どももいましたが、お母さんたちは皆明るい人ばかり。最初はうつむいていた私も、話をしていて随分と前向きな気持ちになりました。
 話すとこんなに楽なんだ、地元でも同じような場をつくれるといいなと思い、生まれたのが「ハイジとクララの会」です。高山赤十字病院に通院する子どもの親を対象に食事会を開催。親同士のコミュニティーとして、気軽に話せる場をつくりました。

もっと頼ってもいい
あかりんぐで得た確信

 飛騨三市一村で、重度心身障がい者の保護者が集まる場として、「高山病弱児を守る会」があります。創立約50年の歴史ある団体ですが、5年ほど前に存続するかの岐路にありました。歴史ある団体ですので存続させたいという会員の思いが強く、私も相談に乗っていたんです。今後の活動をどのようにしていくのかを考えるなか、要請があって会長に就きました。
 会長になってから、私がしたかったのは名称の変更。「高山病弱児を守る会」という堅苦しい名前を、新しいものに変更したいと考えました。そこで、会長になって2年目に皆で意見を出し合い、3年目に「あかりんぐ」に変更しました。子どもに病気や障がいがあっても、安心・安全(あ)、快適(か)、理解(り)される地域になって欲しい。また、行く先を照らす「あかり」と、みんなで輪になって助け合う、車椅子の車輪の「輪(りん)」、さらには繋がり進み続ける「ing」も加え、さまざまな意味を持たせた名前です。
 また、2カ月に1回、「和茶輪茶会」という交流会を開催。会員はもちろん、誰でも気軽に参加できる場を設けました。さらに、年に1回クリスマス会も開催。開催にあたって、ボランティアに依頼するかどうか議論になりました。「知らない人に手伝ってもらうのは申し訳ない」というのが反対する人の思い。しかし、蓋を開けてみれば、看護師、支援学校の教師、地域の方など、一般の方も十数人が参加し、ボランティアの方から「参加させてくれてありがとう」という声が聞けました。大変ありがたい声です。もっと頼ってもいいんだと思えた瞬間でした。

多くの人と一緒に
より良い地域へ変える

 私が会長になる以前は、会の活動は親が中心。それを、「地域の人と一緒に」という方針へと変えました。自分の子を自分だけで守るのではなく、外に連れ出して多くの人に知ってもらう。興味を持ってもらえれば、きっと助けてくれる人が現れると信じています。
 実際、次女が保育園に入る時、飛騨市で初めて看護師同伴で入園させていただきました。小学校に上がる時も、3年後に支援学校ができるまで、隣の古川小学校に通わせてもらったんです。おかげで、次女が同世代の子どもたちと交流でき、とてもうれしかったです。加えて、次女が前例となり、障がいのあるほかの子どもも療育や、さまざまな公的福祉のサービスを受けられるようになりました。
 何でもやってみようという思いで、会員と支援学校の生徒たちが協力し、高山市と飛騨市でユニバーサルベッドが設置されているトイレも調べました。事の発端は飛騨市。飛騨市も最初はまったくなかったのですが、飛騨市長に話すとすぐに対応してくれて、順次多目的シートが設置されています。観光地として、多くの人が訪れる高山市も、障がいのある人にやさしいところになればいいなと、飛騨地域の多目的トイレの調査活動を行ったんです。現状の調査結果と当事者からの声をお伝えしたら、高山市もすぐに対応していただけました。
 また、クリスマス会が縁でつながった人のおかげで、肢体不自由児用の着物着付け体験やプロカメラマンによる撮影会も行っています。子どもの普段見せない表情や姿を見られただけでなく、撮影した写真を地域の金融機関やカフェなどで展示し、「勇気づけられる」と多くの人から声をかけてもらいました。「この子が誰かの役に立てている」と考えると、本当に幸せです。
 障がい者の家族は、自分たちだけですべてをこなそうと思いがち。しかし、自分たちだけではどうにもならない時が多いです。私が悩んでいた時、周囲の人から「外に出れば助けられる。でも、閉じこもっていたら何もできない」といわれてから、考えが一変しました。困難に直面してもポジティブにとらえられますし、何より多くの人と一緒に動く今が一番楽しいと感じています。
 今後してみたいのは、障がいのある人や家族がいつでもふらっと遊びに来れる居場所づくり。古民家を改装して、飛騨地域の人が楽しく過ごせるようにしていきたいです。そうして私の家族のためにさまざまなことをしてくれた地域に恩返しがしたいと考えています。